1960年代の始めに里山を切り開いて作られたあたらしい町、百合丘。 その中心に日本住宅公団(にほんじゅうたくこうだん) 百合丘第一団地と第二団地が建設されました。
百合丘団地は、1950年代後半(ねんだいこうはん)に建設(けんせつ) が始まった近代的(きんだいてき)な団地の1つで、人々が住みたいとあこがれるものでした。
神奈川県(かながわけん)では最初(さいしょ)の近代的団地でした。 できた時からトイレは洋式(ようしき)で、キッチンには一般(いっぱん)に使われはじめたばかりの、ステンレスの流し台が取りつけられていました。
✜ ちなみに、百合小のトイレはすべて和式(わしき)だったと覚えています。 こどもの頃は気にしていませんでしたが、あれ、脚(あし)の健康にとても悪いです。
団地にはたくさんの若いカップルが住み、地域のこどもたちの人口も一気に増えたものと思います。 そして、百合ヶ丘駅のすぐちかくに百合丘小学校がつくられました。
団地のまわりにも住宅地が次々と作られて、そこにもこどものいる家族が移り住み、生田や王禅寺などのまわりの地域ともつながって町が大きくなってゆきました。
それから40年ほどの時がながれ、かつての百合丘第一団地は建てかえられてサンラフレ百合ヶ丘になりました。 また、百合丘第二団地は百合ヶ丘みずき街(まち)に建てかえられました。
✜ みずき街は「みずきまち」です。「ーがい」と記載していたのを訂正しました。(2024-11-02)
✜ 第二団地の一部、高い場所にあった旧117〜129号棟の跡地(あとち) は、UR都市機構(としきこう=かつての住宅公団)から別の会社に売り渡されました。 その場所には、マンションのパークシティ新百合ヶ丘が建っています。上階からは富士山が見渡せる一等地です。
❖ 1960年代を中心に人気のあったスターハウスも、その後は作られなくなりました。
✚ しかし、以降も3つの「ウイング」を持つ高層の集合住宅は建設されています。また、最近でも超高層の集合住宅が作られています。 これらは「スターハウス」ではなく「トライスター」と呼ばれています。
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百合丘団地には切(き)りわけたカステラのような四角(しかく)い建物(たてもの)のほかに、Y字型(わいじがた)の建物もありました。 ちょっと未来的(みらいてき)なかたちのY字型の建物は、 スターハウス✜ と呼ばれます。
下記、「Y字型の建物 スターハウス」に百合丘全体のスターハウスの配置をまとめてあります。 ➤こちら
スターハウスは第一団地に4棟(とう)、第二団地に4棟、合計で8棟ありました。 さらに、現在(げんざい)のサンラフレ百合ヶ丘9号棟の向(む)かいのカネカと江商(ごうしょう)の各1棟の社宅(しゃたく=かいしゃがしゃいんのためにつくったいえ)も、スターハウスでした。
また、百合ヶ丘駅前からバス通りを登(のぼ)っていって第一団地前(だいいちだんちまえ)バス停右奥(みぎおく)にもスターハウスが2棟ありました。 森永乳業(もりながにゅうぎょう)の社宅です。
北側(きたがわ)1棟は2008年あるいは2009年ころまで残(のこ)っていましたが、ついに取り壊(こわ)されてしまいました。
江商(ごうしょう)株式会社(かぶしきがいしゃ)は大阪に本社があった商社(しょうしゃ)です。
その後合併により、現在は兼松江商(かねまつごうしょう)株式会社になっています。
株式会社カネカは化学品のメーカーで、「カネ」は「鐘」から来ています。
兼松江商とは別の会社です。
❖ 訂正 初め、2つの並んだスターハウスは両方ともカネカの社宅であると考えていました。 しかし北側の1棟は江商の社宅でした。(2015-11)
もうひとつ、弘法の松交差点(こうぼうのまつこうさてん)から弘法松公園(こうぼうのまつこうえん)のほうにのぼったところ、公園入口の前にも ANA の社宅のスターハウスが1棟ありました。
ANA: 当時の略称(りゃくしょう)は全日空(ぜんにっくう)です。
現在では ANA(エーエヌエー :All Nippon Airways Co., Ltd.より)がよく使われるようです。
正式社名は全日本空輸株式会社(ぜんにっぽんくうゆかぶしきがいしゃ) )
スターハウスではありませんが、百合丘団地にとなりあっていろいろな会社や国の組織(そしき)の社員・職員住宅がたくさんありました。
放送局、文化放送の社宅が ANA の社宅のすぐ近くにありました。 住棟(じゅうとう) の番号が QR1、QR2 となっていました。 これが文化放送のコールサイン(電波を出す無線局としての識別符号(しきべつふごう))JOQR からきているものと、最近になって知りました。
こんな団地を舞台(ぶたい)に映画(えいが)も作られています。 団地ができたばかりのころの百合丘の景色(けしき)がうつっているので、チャンスがあったら見てみるとおもしろいでしょう。 お話(はなし)は小学生ではちょっとむずかしいかもしれません。
(1) 『喜劇 駅前団地』[きげき えきまえだんち]
✱ 1961年公開 監督:久松静児 監督
制作:東京映画 配給:東宝
地上波(ちじょうは)やBS(びーえす)のテレビで何度(なんど)も放映(ほうえい)されています。 DVD になっています。
ネットを探したら、映画の各場面を撮影した場所、ロケ地を訪問する「東宝映画のロケ地を訪ねる」という記事がありました。
その中でこの「喜劇 駅前団地」が取り上げられています。 また「クレージー作戦 くたばれ!無責任 」の中でも百合丘団地の風景が使われている場面がありました。
「荻窪東宝」(おぎくぼとうほう) のページ内「東宝映画のロケ地を訪ねる」をご覧ください。
➜ 荻窪東宝
旧記事タイトル:「聖地巡礼」(せいちじゅんれい)
(2) 『彼女と彼』[かのじょとかれ]
✱ 1963年公開 監督:羽仁進 監督
制作・配給:岩波映画製作所
CS有料放送(しーえす ゆうりょうほうそう)で放映(ほうえい)されたことがあると聞(き)きました。
また、2015年現在(げんざい)では DVD にもなっています。
❖百合丘団地
❖ 第一団地 1960年8月入居開始 完了時 1078世帯
❖ 第二団地 1961年6月入居開始 完了時 672世帯
(正確には5月31日/富士塚名店街(130,131号棟)の6世帯を含む)
【日本住宅公団】
[にほんじゅうたくこうだん]
みじかく「公団」と呼んでいました。 人々に安(やす)くて住(す)みやすい家(いえ)をよういするために国が作った会社(かいしゃ)のようなもの; 今はなくなっていて公団をもとに作られた UR都市機構(ユーアール としきこう)が団地を管理(かんり)しています。 団地の建て替えのあと、今の家賃(やちん)は、安くはなくなっています。
UR都市機構の正式名称は「独立法人 都市再生機構」です。
ああ、ややこしい。
1つめの地図はおおむね1990年以前の百合丘周辺です。 建て替え前の百合丘団地の建物(たてもの)の配置(はいち=ならび)を示しました。 団地と社宅のY字型の建物 スターハウスの配置もしるしました。
いくつかの場所の標高(ひょうこう=うみからのたかさ)も示しました。百合丘は丘陵(きゅうりょう)をけずってつくられた町で、坂や階段がたくさんあります。
若いカップルが入居してきた百合丘団地周辺には児童公園(じどうこうえん)がいくつもありました。 第一から第七まで確認できますが、なぜか団地の近くには「第六」がありません。 バス停団地坂上から南に250mほどのところに「百合丘第6公園」があるのですが、その周辺は百合丘団地ができたころにはまだ里山(さとやま)あるいは畑の中でした。 「6」がなかったので後から作った時にその番号を使ったのでしょうか。
また、現在「第一公園」の名前は残っていません。 しかし、1990年発行の地図(印刷物)には「弘法松公園」(こうぼうのまつこうえん)のところに「百合丘第一公園」と記(しる)されていました。 そこで、私は弘法松公園が第一公園と呼ばれていたことがあったのではないかと考えています。 ただ、弘法松公園に行ってみると、入り口には「弘法松公園」としか表示(ひょうじ)されていません。
❖ その後たしかめたところ、川崎市の公園一覧表に『弘法松公園 (旧 百合丘第1公園))』と書かれていました。 いつ頃までその名前だったかははっきりしませんが、上に書いたように1990年発行の地図には「百合丘第一公園」と記(しる) されています。(2019-09 記)
❖ (追記 2022-02-02) 調べたところ、公園名が変更されたのは 1989年3月とのことです。
第二児童公園の横、日之出マーケットのななめ向かいにはL字型に並んだ2棟の建物がありました。 2階が住居、1階が商店のいわゆる「ゲタばき」で、この一角を富士塚名店街(ふじづかめいてんがい)といいました。
富士塚名店街には食料品・酒屋、魚屋、八百屋、金物屋などがならんでいました。 ここにあった食料品・酒屋の「生田ストアー」は、現在(2011)ではすぐ前の十字路の向こう側に移りコンビニとして営業を続けています。 このコンビニの場所は、かつて百合丘第二団地の101号棟があった場所です。
❖ コンビニ スリーエフは 2017年の後半に閉店しています。
「富士塚名店街」の前の十字路のまわりにはその他にもいろいろなお店があり、全体で「富士塚商店街」(ふじづかしょうてんがい)と呼ばれています。 この商店街は、店数は減ったものの今も健在(けんざい)です。
✚建物の移り変わり
❖ サンフレッシュは、建物が改築で小さくなったものの、三ツ輪星マーケットの原形を一部残して営業していました。しかし、2012年11月末に50年以上に渡る営業を終了し、閉店しました。
✢ 建物の老朽化(ろうきゅうか=古くなること)が主な理由だと思います。 2013年の7月初めには、建物の跡地がコインパーキングになっていました。
✚航空写真
国土交通省 国土地理院(こくどこうつうしょう こくどちりいん) mapps (まっぷす) で公開されている百合丘の航空写真(こうくうしゃしん) に、場所や建物の名前を入れました。
百合ヶ丘駅ができてすぐ、そして、新百合ヶ丘駅ができたあとの百合丘団地のまわりの様子をごらんください。
百合丘第二団地には101から128号棟までの28の住棟(じゅうとう =人がすむためのたてもの) があり、その1番目の101号棟は第二児童公園の近くにありました。 101号棟が、たぶん百合丘団地全体で一番小さい住棟です。
現在その場所にはコンビニがあります。 公園近くを歩いていたら、第二児童公園の前にある動物病院の電柱広告に「第二団地101前」の表記が残っていました。 2011年で、第二団地が無くなってからもう6年以上経つでしょうか。 この動物病院は今でも同じ場所で診療中です。
次の写真のうしろに見える建物は百合丘第一団地立て替え後のサンラフレ百合ヶ丘10号棟です。 右側の緑(桜の木)の内側が第二児童公園です。
❖ このコンビニ、スリーエフ百合丘三丁目店は、2017年の秋から冬頃に閉店(へいてん)しました。
2020年になってもうひとつ「101号棟」の表記がある看板を見つけました。 101号棟の向かいにあたる、現在も営業中の「松葉浴場」の看板です。
この看板は松葉浴場から東南東に直線で2.5km 離れた宮前区水沢の尻手黒川道路(しってくろかわどうろ) 沿いにありました。 101号棟が取り壊されてそろそろ20年になろうという頃ですが、この看板は比較的きれいなまま立っていました。
前述の電柱広告から道をはさんで反対側、第二児童公園の入口に周辺の商店等の案内板が残っていました。 内容からして、数十年前に掲示されて何度か訂正している内にいつの頃からかそのままに放置されているようです。 もはや無くなってしまった「富士塚名店街」(図の上部中央)の表記も残っています。
130号棟が「富士塚名店街」になっていますが、これは 131号棟の誤りか? 周囲の商店、医院などでも今はないものがあります。
下記の「追記」もごらんください。 なお、この案内板は 2019年現在、取り外されたようです。
松葉浴場(営業中)となりの百合丘ベーカリーのクリームパンは、香りが良くとてもおいしかった記憶があります。すでに閉店後長い年月がたっていますが、前を通るたびに感じていたパンが焼ける匂いを思い出します。
❖ 更新:2020-08/2019-09 初期公開:2011-06
✚追記 (ついき =かきたし)
富士塚名店街は、1階がお店で2階が住居(じゅうきょ) という2階建の建物でした。 団地住棟(だんちじゅうとう) と似た形の鉄筋コンクリートの建物に入ったお店の集まりです。 建物は十字路に沿って2棟がL字型に並んでいました。 第二児童公園に近い建物は131号棟でした。いっぽう公園から遠いもうひとつの棟は130号棟です。
このページを最初に書いた時には富士塚名店街はL字型につながった1棟で、それが131号棟であると考えていました。 その後、ここで営業をしていた方に確認したところ、131号棟と130号棟の2棟に分かれていたとのことでした。(2011-12)
百合丘団地と周辺の企業社宅の中には上から見るとY字型の建物がありました。 この建物は住宅公団では「スターハウス」と呼んでいました。5つには足りませんが、3つの部分が中央から飛び出して星形に見えるからです。
スターハウスは、同じ形の建物が並ぶ団地内の景色に変化を与えるために作られた特徴(とくちょう)のある建物の1つです。 十分な大きさのない土地に建物を建てるためとか、団地のシンボルとしての役割も持たされていたといいます。
百合丘には8棟の公団のスターハウスと、5棟の企業社宅のスターハウスがありました。 森永乳業百合丘アパートの最後の1棟が2008年頃(?)に取りこわされて、全てのスターハウスが百合丘からなくなりました。
✚百合丘団地と
周辺のスターハウス
百合丘団地の8棟と企業の社宅5棟、計13棟のスターハウスの位置を 1975年の航空写真にマークしました。
1975年1月4日撮影
百合丘団地にあったものと全く同じものかはわかりませんが、スターハウスの平面図を見ることができましたので、1フロアのだいたいの形を絵にしてみました。
スターハウスは1フロアに3つの住戸があります。 この例では、1つの住戸の中はいわゆる2DKです。2つの部屋とダイニングキッチンがあります。
トイレとお風呂もちゃんとついていました。
http://codan.boy.jp/ (Codan walker) を参考にさせていただきました。ありがとうございました
現在(2010年8月)でも東京の赤羽台団地(あかばねだいだんち) に行くと、団地建設当時(1962年)のスターハウスが残っています。 JR赤羽駅西口を出ると、赤羽台の高みに誇(ほこ) らしげにそびえるスターハウスが望めます。 スターハウスが建てられた頃(1950年代後半〜1960年代)には、公団の団地に住むことが1つのあこがれにもなっていました。 広い団地の中で、目立つスターハウスは確かにシンボルになっていたのです。
残念ながら、百合丘団地のスターハウスがはっきりと映った写真は手元にありません。 屋根の一部がちょこっと写っているものしかありませんでした。 スターハウスの姿を記録したかったので、赤羽台団地に行ってスターハウスの写真を撮ってきました。
百合丘団地にあった公団のスターハウスも、赤羽台団地と同じく5階建てでした。 百合丘の社宅のスターハウスは4階建てもしくは5階建てだったと思います。
赤羽台団地は 2010年時点では「ヌーヴェル赤羽台」に建て替えが進んでいて、古い建物が次々と取壊(とりこわ) されています。
多くの種類の、デザインが異なる建物が並んでいる広大な赤羽台団地は、繁栄(はんえい) した「団地」の建物を展示する博覧会場(はくらんかいじょう) のように見えました。 これが全て高層(こうそう=かいすうがおおくたかい) の「カッコイイ」マンション風建築に変わってしまうのも残念なことだと感じたものです。
写真や、現存しているスターハウスを見ると、現在でもすてきなデザインに見えます。 三角形に旋回(せんかい =ぐるぐるまわる) してのぼる階段も、何か楽しく、いい形をしています。
住宅公団ではこんなデザインを 1950年代に考案し、実際に建設の始まった日本各地の団地にスターハウスを建てていったのです。 デザインとしても機能としても、かなり先進的であったと感じます。
赤羽台団地42号棟のスターハウス入口
3戸x5階=15戸分の出入り口と考えるとちょっと狭いかなとも思います。
赤羽台団地の43号棟スターハウス北側階段部分 おどり場はバルコニーになっています。
数々の追加配管や配線は、長い年月の間に繰り返した改良の跡と思われます。
赤羽台団地のシンボルとしてのスターハウス49号棟
赤羽駅から団地入口に近づくと見えてくる。 ❢解体済
このような魅力(みりょく) あるスターハウスですが、通常の建物よりも作りが複雑で建設するのに手間がかかりました。 大量生産に向かず、また、隣の部屋の窓の中が見えやすいなどの不都合(ふつごう) もあり、ついには建てられることはなくなっていったそうです。
そして、住宅公団の団地が登場してから50年以上経った今、団地の建て替えとともにスターハウスはなくなりつつあります。
住宅公団以外の社宅などとして建てられたスターハウスも、同様に建て替えが進み、2010 年(H.22)現在、日本からスターハウスは消えつつあるようです。
スターハウスは、少しづつ違いはありながらも似ている形の設計が会社の社宅や県営団地、市営団地などでも使われていました。
東京の西武池袋線ひばりヶ丘駅近くのひばりが丘団地(東京都西東京市)では建て替えが進む中、1つだけ53号棟のスターハウスが保存されているそうです。
補修(ほしゅう) して事務所や集会所として使っているとのこと。 歴史的意味があるということで保存されているので、しばらくは安泰(あんたい) でしょう。 今後、現物のスターハウスを見たくなったらここに行くしかなくなるかもしれません。
保存されるスターハウスが増えています❢
こちらもごらんください ➜「消えてゆくスターハウス」
まさに百合丘団地のスターハウスの写真を次のサイトで見つけました。 百合丘団地の他の部分の景色も見ることができます。
第一団地がサンラフレ百合ヶ丘に建て替えられた後、第二団地が半分ほど撤去された頃にぎりぎりセーフで撮影されたようです。 間にあってよかった。 第一団地前の森永乳業百合丘アパートの写真もあります。
➜ http://codan.boy.jp/
✜ Codan Walker; コーダンウォーカー
サイト内の「百合丘第二団地」のページと、「スターハウス特集」のページに、百合丘のスターハウスの写真があります。
「スターハウス」の名前や歴史など、このホームページで勉強させてもらいました。感謝。
「スターハウス」の名称を私ははじめて聞いたのですが、この名前を広めたのは「コーダンウォーカー」の著者の方の功績のように思います。
なお、近年の大型のマンションで、3つの「ウイング」を持つ建物は、「トライスター型」などと呼ばれるようです。
例➜ スカイズ タワー&ガーデン@豊洲
(グーグルマップ)
✚消えてゆくスターハウス
(更新: 2020-08-16, 2018-07-26, 2016-07-01)
地図を見ていて気付いたのですが、新宿区北新宿にスターハウスを見つけました。
全部で6棟の建物があるNTTの柏木社宅(かしわぎしゃたく) です。
その内、北側の3棟がスターハウスでした。
見に行ってみると、社宅の範囲がすべてフェンスで囲まれて取り壊(こわ) し工事中でした。(2013年4月5日)
スターハウスも解体の最中で、建物の一部が残るだけでしたが、5号棟の部分の写真を撮ることができました。
4階建(かいだて) で、確認(かくにん) できる階段(かいだん) の作りなど、外見は赤羽台団地とはやや異なっていました。
❢「ロイヤルパークス北新宿」は後年「ブレス北新宿」(Bless 北新宿)に名称が変更されました。
かつては東京のどまん中にもスターハウスがありました。 表参道駅(おもてさんどうえき)の近くにあった「原宿団地」(はらじゅくだんち) です。これも2010年ころに取り壊されました。 跡地(あとち) には「ザ・神宮前レジデンス」ができています。
❉ 保存されているスターハウス
今や実際(じっさい)にスターハウスを見るのはむずかしくなってきました。 それでも、URのスターハウスでは保存されているものもあります。 現在、私が知っているかぎりでは次の2棟のスターハウスが記念碑的(きねんひてき) な意味で保存されています。 (2010年 初期記載時)
✱NEWS 2019-03-28
✲「赤羽台団地スターハウスの保存決定」
2019年3月16日のニュースによると、赤羽台団地(現在は ヌーヴェル赤羽台)(あかばねだいだんち) の 42、43、44号棟(ごうとう) の3棟のスターハウスの保存(ほぞん) が決まったそうです。 隣接する標準的板状住棟 41号棟とともに残されるとのこと。
前に書いたように、保存目的で1棟のスターハウスが残っている場所はありますが、 3棟が並んで保存されるのは今回が初めてです。
赤羽台団地には全部で8棟のスターハウス 42〜49号棟があり、団地東側の崖(がけ) に沿って並んでいました。 赤羽駅から団地に近づくと、これらのスターハウスが高いところに並んで見え、団地のシンボルとしての役割(やくわり) をちゃんと果たしていることがわかりました。
2018年に建築学会(けんちくがっかい) から保存の要望書(ようぼうしょ) が出されていたのですが、 このほど前にのべた4棟(うち3棟がスターハウス) が保存されることになりました。
➜ 建築学会の要望書 (PDF, 2018-07-25)
❉ スターハウスの記念碑
いっぽう、大阪府堺市(おおさかふさかいし) にあった金岡団地(かなおかだんち) はたてかえられてサンヴァリエ金岡になっていますが、 この中にスターハウスのかたちをしたモニュメントがあります。
実際(じっさい) にこの場所にあったスターハウスの土台の上に、スターハウス型(がた) のわくぐみを作り、 スターハウスの記憶(きおく) をのこしています。 モニュメントのある広場を「スターハウスメモリアル広場」とよんでいます。
この団地の管理事務所(かんりじむしょ) も、上空から見るとスターハウスの形にこだわって作られていることがわかります。 ➜ここ(管理事務所と集会所が1つの建物になっているようです)
金岡団地は、1956年(S.31)に日本で最初にできた日本住宅公団(にほんじゅうたくこうだん) (現在のUR)の賃貸住宅(ちんたいじゅうたく) でした。
金岡団地の全46棟(とう) の住棟(じゅうとう=人が住むためのたてもの) のうち、8棟がスターハウスでした。 百合丘団地のスターハウスではベランダであった部分が、金岡団地ではサンルームだったそうです。 先進的です。
➜ 地図
➜ スターハウスのモニュメント
➜ UR の関連記事(かんけいするきじ)
サンヴァリエ金岡の住所は、なぜか金岡町(かなおかちょう) ではなく、東三国ヶ丘町(ひがしみくにがおかちょう) です。 団地のある場所は 1900年(M.33)ごろは金岡村でした。 また、金岡団地ができた頃は団地の北側にある現在の阪和線堺市駅(はんわせんさかいしえき)は金岡駅でした。 (1965年に堺市駅に名前が変わる)
団地名は団地が初めてできたころの地域(ちいき) の名前によるものとおもいます。
金岡団地の住棟について
1956年の完成当初は住棟は38棟あり、中央部の5棟がスターハウスでした。 その後、西側に隣接して8棟(内スターハウスは3棟)が建てられて全46棟、内スターハウスは8棟になったと理解しています。 はじめの5棟のスターハウスは若干西寄りに向いて建っているのに対して、後からの3棟はほぼ南を向いています。 ちょっと気になります。
1961年5月の航空写真を見ると、当初の団地の西側に3棟のスターハウスを含む8棟が建設されていることがわかります。 航空写真などからの判断なので、この新しい建物が金岡団地の拡張だったかどうか確信はありません。 棟の数には誤りがあるかもしれません。
前述のスターハウスのモニュメントは、「拡張」された部分の3棟のスターハウスのうちの最も北側の1棟の跡地にあります。 ですから、この部分も金岡団地だったのではないかと考えるものです。
❉ 今も使われているスターハウス
1960年(S.35)に入居が始まった千葉県松戸市(ちばけんまつどし) の常盤平団地(ときわだいらだんち)は、 建て替えをせずに補修(ほしゅう)しながら使い続けられることになりました
この団地の中には10棟のスターハウスがあります。 しばらくはスターハウスも現役(げんえき) をつづけることになりました。
この団地から1.5kmほどのところには、初期(しょき) の常盤平団地を再現(さいげん) した展示(てんじ) のある松戸市立博物館(まつどしりつはくぶつかん) もあります。
『117号棟のスターハウスの前を通りかかると、やけに大きなテレビの音が聞こえる。ふとそちらに目をやると、窓を開けっ放しで下着姿のおじさんがテレビを見ている』
このような風景(ふうけい) はこの町からはなくなりました。 117号棟があった辺りには、りっぱな民間のマンションが建ちました。 新しいデザインの大型の建物です。 セキュリティ完備(かんび) のマンションに暮らす人々は、日本経済華やかなりし頃の団地の住人よりはおしとやかです。
人によりものの感じ方は違います。 きれいな、設備の整った大きな建物のほうが住むのには安心。 そのとおり。 でも、私は今の「百合丘団地跡の新しい都市」に以前よりも若干窮屈(きゅうくつ) なものも感じます。
団地の建物のカタチにも、改めて思い返すとスターハウスのほかにも気になるものがありました。
百合丘団地は谷戸が刻(きざ) まれた丘陵地(きゅうりょうち) を整地して作られた団地です。
❖ 谷戸: やと 三つの方向を山に囲まれた細長い谷。谷底は水田や畑として使われる。主に関東で使われる地形の名前。
公団坂上(当時の名前)のバス停は、周辺では最も高い標高120mほどの位置にあります。 その付近に並んでいた120番台の団地住棟は、坂に作った段差(だんさ) のある土地に建っていました。 建物は長い板のような形ですが、坂を上るに連れて階段状に高さが変わる、独特の形をしていました。
スターハウスに劣(おと)らずおもしろい形だったと思います。 壊される前に写真に撮っておこうと思っていたのですが、忙しさでそのままでした。 撮影しておけば良かったと残念に思っています。
「独特な形の団地住棟」で思い出したのは、百合丘団地の場所から遠くないところにある麻生台団地(あそうだいだんち) です。 ここにも変わった形の住棟が並んでいます。
麻生台団地では、小山というか台地の上と山腹(さんぷく) にいろいろな形の住棟が配置(はいち) されています。 いちばん気になるのは、建物が建つ地面と接続する道路の間に大きな段差がある住棟です。
これらの建物では、道路と建物の入口の間に橋が架かっているのです。 「団地マニア」ではない私も興味をひかれるおもしろい形です。
麻生台団地も百合丘団地につづく長い歴史を持っています。
建て替えが始まる前にその姿を記録しておきたいと考えるものです。
✚麻生台団地築年月: 1970年11月
✚百合丘団地入居開始 第1:1960年 第2:1961年
百合丘団地解体から20年ほどが過ぎ、気がついたら麻生台団地のほうがずっと「長寿命」になりました。(2020-08 記載)
「百合丘団地」の記事の最後に、今も見ることができる「麻生台団地」を紹介したいと思います。
それにしても、百合丘団地を撮影しておけばよかった。
あとのまつり。
after the festival
麻生台団地(あそうだいだんち)
麻生区(あさおく)王禅寺西(おうぜんじにし)と下麻生(しもあさお)に位置します。 43棟、947戸。 19号棟は管理組合事務所(かんりくみあいじむしょ) で、となりが集会所です。
当時の日本住宅公団が建設・分譲(ぶんじょう=うること) した集合住宅で、百合丘団地とは異なり賃貸(ちんたい=かすこと) ではありません。 住民の管理組合が委託(いたく) した管理会社により管理されています。
メモ
団地の住所は「下麻生」です。郵便番号簿によると読みは「しもあさお」です。 でも、地元の人の発音は「しもあそう」と聞こえます。
「麻生区」は最近(1982年7月) 発足(ほっそく=あたらしくつくられる) して読みも初めからはっきりしていたためか「あさおく」で異論(いろん=ちがういけん) はないと思います。
しかし、「下麻生」には2種類の読みがあるようです。 そして、「麻生台団地」には「あさおだいだんち」と「あそうだいだんち」の2種類の読みがあるように思います。 麻生台団地の住人が「あそうだいだんち」と言っているのを聞いたことがあります。