生活 せいかつ
|
とじる |
ゆりストアの新聞(しんぶん)チラシに、百合ヶ丘駅前(えきまえ)におみせができてから、2010年(H.22)で50年になるということがかいてありました。 チラシには、ゆりストアの上の階(かい)から百合ヶ丘駅(えき)を写(うつ)した写真(しゃしん)がのっていました。 駅の向(む)こう側(がわ)に、たんぼが見えているのが印象的(いんしょうてき)でした。 ゆりストアは百合ヶ丘駅(えき)ができた1960年(S.35)からおみせをひらいています。 私は、1963年(H.38)の2月にこの町(まち)にひっこしてきました。 そのころの百合ヶ丘駅前(えきまえ)には、ゆりストアのならびの今とおなじ場所(ばしょ)に、すでに商店街(しょうてんがい)ができあがっていました。 でも、お店(みせ)のしゅるいは今とはちがっていました。
そのころの百合ヶ丘駅前にはこんなお店がならんでいたのをおぼえています。(たくさんある中のごく一部です) そのなかでも、たべものを中心(ちゅうしん)にいちばんよくゆくお店はゆりストアでした。 コンビニはまだ世の中にでてくる前(まえ)で、スーパーの三和(さんわ)もありませんでした。 ゆりストアは、2020年にクリエイトエス・ディーの100%子会社になりました。 地元で創業(そうぎょう)した百合丘の老舗(しにせ)スーパーが横浜発祥(はっしょう)のドラッグストアに取り込まれてしまいました。 王禅寺のゆりストアは、一部ドラッグストア化して便利になったかもしれません。 一方、千代ヶ丘のゆりストアは2022年9月30日に閉店してしまいました。 すぐ近くにすでにクリエイトのドラッグストアがあるので、跡地(あとち)がどうなるのか気になるところです。 |
駅からバスどおりを公団坂上(こうだんさかうえ)にむかって登(のぼ)ってゆくと、ちいさな商店街(しょうてんがい)がいくつかありました。 こんなおみせがありました。
|
|
|
駅からちょっと離(はな)れた百合丘第二団地に住む人たちのために、第二団地の入口にもつぎのようなお店が集まった商店街がありました。 2000年を過ぎたころ(?)、第二団地101号棟跡(あと)にはコンビニができ、松葉浴場(まつばよくじょう)は営業を続けています。 しかし、現在、その他のお店の多くは閉店し、跡地(あとち)には住宅(じゅうたく)ができています。
|
❖ 101号棟跡のコンビニ スリーエフ も2017年の秋〜冬に閉店してしまいました。 ❖ 百合丘ベーカリーとその西どなりで何年か前まで営業していた宇田川豆腐店の建物は、2023年の7月に解体が始まりました。 あとに何ができるのかきょうみあるところです。 百合丘には、急に数が増(ふ)えた住民(じゅうみん)のための医院・病院(いいん びょういん)もありました。 次のような医院・病院です。 これらの医院・病院はすでに閉じてしまったものもあります。 先生のお年のためでしょう。 しかし、百合丘の人口(じんこう)はその後も増え、町には新(あたら)しい医院(いいん)が多(おお)くできています。
|
|
|
上下水道(じょうげすいどう)と都市(とし)ガスは、百合丘団地では整(ととの)っていたとおもいます。 しかし、まわりの町(まち)ではまだ使(つか)えないところがありました。 たとえば、私の住(す)んでいた生田(いくた;今の東百合丘)では、上水道はなく井戸水(いどみず) をつかっていました。 井戸水とはいっても、給水塔(きゅうすいとう) があり、電動ポンプでくみあげてタンクにため、ふつうの水道のように各家(かくいえ)に配(くば)っていました。 当時は、この給水塔から東に200mほどのところにも、新しくできた中台住宅地(ちゅうだい じゅうたくち)に水を配る、同じような井戸水の給水塔がありました。 井戸水は塩素(えんそ)のにおいがなく、夏(なつ)は冷(つめ)たかったです。 そのまま飲めば、水道水(すいどうすい)よりおいしかったかもしれません。 しかし、消毒(しょうどく)していないということで、飲(の)み水は湯冷まし(ゆざまし=いちどわかしてしょうどくしてからさましたもの)にしていました。 |
断水(だんすい=水がたりなくなり、でなくなる)した記憶(きおく)はありませんが、 台風(たいふう)などで大雨が降(ふ)るとしばらくの間は蛇口(じゃぐち)から出る水は濁(にご)っていました。 たくさんの雨水が地下水の流れる地層(ちそう)にはいりこみ、かきまぜて細かい砂をまきあげていたのでしょうか。 生田では、下水道(げすいどう)はいわゆる「どぶ」で、道路(どうろ)の両脇(りょうがわ)のふたのない側溝(そっこう)に下水(げすい)を流(なが)していました。 トイレの水は、各家(かくいえ)に備(そな)え付(つ)けられた浄化槽(じょうかそう)できれいにしてから、側溝に流(なが)していました。 ある日、窓をあけて側溝を見下ろすとどぶねずみが高速(こうそく) でかけぬけてゆく、なんていうこともありました。 ガスはプロパンガスで、家(いえ)の裏(うら)にはおおきなガスボンベが取(と)りつけられていました。 上下水道(じょうげすいどう)と都市ガスは、その後、徐々(じょじょ)に使えるようになってゆきました。 |
【浄化槽】[じょうかそう] |
家庭(かてい)からでる汚(よご)れた水(トイレ、ふろ、キッチンなど)を、側溝(そっこう)に流(なが)す前(まえ)に、細菌(さいきん)などの力(ちから)できれいにする設備(せつび) 家の裏庭(うらにわ)などに埋(う)められている大きな入れもので、この中で細菌が時間をかけて汚(よご)れを分解(ぶんかい)します。 汚れがとれた水は薬で消毒(しょうどく)し、きれいになった水が側溝に流(なが)されます。 その後、汚れた水をそのまま集める下水管(げすいかん)が各家庭(かくかてい)につながり、浄化槽は必要(ひつよう)なくなりました。 集(あつ)められた汚れた水は、下水処理施設(げすりしょりしせつ)でまとめてきれいにされます。 現在(げんざい)、この周辺(しゅうへん)の水は上麻生6丁目(柿生駅近く)の「麻生水処理センター」(あさおみずしょりせんたー)で処理されています。 |
現在のバス停(てい)「原店前」(はらみせまえ)の近(ちか)くにあった井戸水(いどみず)の給水塔(きゅうすいとう)です。
ここからまわりの家(いえ)に水が配(くば)られていました。 給水塔の向かいに「原店」(はらみせ)という食料品・雑貨店(しょくりょうひん ざっかてん)があり、お店が井戸水の管理(かんり)もしていました。 さつえい:1963年4月5日(S.38) タンクのふもとにはモーターで動くポンプがおいてありました。 各家(かくいえ)で水を使ってタンク内の水が減(へ)ると自動的(じどうてき)にポンプが動いて地下水(ちかすい=井戸水)を吸い上げ、タンクにためるようになっていました。 このへんは尾根(おね) が交わる頂点で、標高(ひょうこう)も100m以上あるのですが、それでも井戸水が使えたのですね。 そして、一番高いところに配水タンクを置くのは合理的です。 上に書いたように、このタンクから東に二百数十メートルのところにもおなじく給水塔があり、まわりの家に水をくばっていました。 もう一つのタンクの跡(あと)はずっと空き地でしたが、最近(さいきん; 2017)になってなにやら工事が始まりました。 家がたつのかなと思いましたが、せまい土地は整地された後は空き地のままです。(2022年現在) |
タンクに水をくみあげるモーターが設置(せっち)されたポンプ小屋があったようです。
記憶があやふやなのですが、写真では電気メーターがとりつけられた小さなたてものがあるのでそうだと思います。
わかりやすいように画像にいろいろと説明をつけました。
4人のこどもたちの1人は私の妹です。 顔はヒミツ。
❖クリック/タップで拡大 ❖説明あり/なし切替あり さつえい:1964年(S.39) 井戸水には殺菌・消毒(さっきん・しょうどく)はおこなわれていませんでした。 風呂や手洗いなどはそのまま使いましたが、飲む水は一度やかんで沸騰(ふっとう)させた湯冷ましです。 もちろん、ジャパネットのウォーターサーバーもなければ、ペットボトルの水もありません。 ところで、アメリカでは現在でも水道の水は飲めないのが普通で、飲み水はおっきなボトルの水をスーパーなどで買ってきます。 当時の川崎市生田は「アメリカ並み」だったのです。 それにしても、今の水事情はすごいナ。 台風などの豪雨(ごうう)があると、井戸水はこまかい砂でにごりました。 半日(?)くらいでしょうか、水のにごりがなくなるまで、水道を流しっぱなしにしたりしました。 でも、そのような状態は何年かのちには上水道の開通で解消(かいしょう)されました。 川崎市は、歴史的に水道の普及・改良に力を入れているようです。 2022年現在では、何年も前から水道管の耐震化(たいしんか)工事がすすんでいて、写真の場所の周辺もすでに耐震化工事が終わっています。 |
【原店 -はらみせ- のはなし】(2022-10 更新) 写真の1963〜4年にはまだバス停はありません。(バス停ができたのは、1970年より後だったと思いますがよくおぼえていません) 原店はすでに閉店しており「原店前」のバス停の名前としてのみ残っています。 原店の跡(あと) には、高齢者(こうれいしゃ)向けデイサービスが入っていましたが、その後建物もこわされて、一般の住宅が建ちました。
✚ 原店は2006年(H.18)に閉店しています。(関係者に確認しました)
原店前バス停も、新たな住宅建設にともない、下り(聖マリアンナ医大病院方面)のみが200mほど離(はな) れた馬の背尾根道上に移設(いせつ) されました。 2019年11月のことです。 もはや「原店跡前」でもありません…
ちなみに「原店」は1876年(M.9)に、飴(あめ)や一杯酒を売る茶屋として開店したとのことです。
当時は周りが一面の原っぱだったそうで、人々が「原店」と呼ぶようになったとのことです。
たしかに宅地開発が1960年前後にはじまるまで、まわりには畑と雑木林しかありませんでした。
✚ 原店ではジューキパンの食パンや菓子パンを売っていました。
しっかりと看板にジューキパンと書いてありました。
原店の裏手(北側)に長らく残っていた3本の大楠も 2020年7月に切り倒され、周辺の緑は失われてしまいました。 |